手を繋ぐということ

9月3日

 

恋人がコロナに感染した。

 

火曜日の朝に、恋人からすこぶる体調が悪いと連絡が入った。

体調を崩した所を初めて目にして転勤になって間もないのにと、とても心配になりすぐ家に行くつもりで返信をしたら、市販薬を飲んで一旦は落ち着いているから大丈夫と返って来た。

せっかくの休日を体調不良だけど一人で過ごしたい気持ちもあるだろうと思い、何かあったらすぐ行くので何時でも連絡下さいと返信した。

夕方、様子を聞いたら状態は変わらないようでとても辛そうだった。

コロナかもしれないし、うつす可能性もあるからと言われたけど、流石にほっとけないというか、返信をする前に支度をしていた。

今日飲んだ市販薬を聞いて、即効性のある薬と必要な物を買って急いで向かった。

着いた時に連絡したけど返信がなく、合鍵で入っていったら苦しそうにベッドで寝ていた。

(合鍵についてはまたの機会に掘り下げたいと思う)

身体に触ると明らかに高熱で、測ってみると38度6分。スポーツドリンクとエネルギーゼリーを食べさせ、薬を飲ませた。

 

私が来てから彼はずっと私の手を握っていた。

 

彼は日頃からベタベタするタイプではない。

天邪鬼な性格なせいもあり、言葉にはしなかったが、本当は辛かったんだろう。

余程ひとりが心細かったんだろうと、手を強く握り返した。

 

その日は時間も遅い為、明日様子を見て病院に行く事にしようと話をして帰宅した。

翌日、熱も微熱まで下がり、症状も軽くなっていて少し安心した。念の為検査を受けれる病院を予約し、結果が分かるのは次の日になった。

布団に横になり、眠る時、彼はまた私の手をずっと握っていた。彼なりの精一杯の甘え方だったのかもしれない。

 

不謹慎だが、過去の恋人達のほとんどが手を繋ぎながら眠る人達だった事をふと、思い出した。

 

つい先日、ひと棚の選書に合わせて伊藤亜紗さんの「手の倫理」という本を読み直していた。

人に接する時の「さわる」と「ふれる」の違いについて考えた内容になっている。

大まかに言えば、「さわる」が一方的で「ふれる」が合意という考え方で進められていく。

 

じゃあ、手を繋ぐということは「さわる」なのか、「ふれる」なのか、どちらなのか。

一方的に手を握れば「さわる」なのか、

受け入れられていれば「ふれる」なのか。

 

恋人はきっと「さわる」ではなく、ふれたかったんではないだろうか。

 

私も毎晩愛猫と手を繋ぎながら寝ている。病気になり、実家に帰る事になった頃から自然と一緒に寝るようになり、いつからか手を繋いでいた。

 

「ふれる」というのは「さわる」と違って安心感や安らぎが伴っているように思う。

その安心感の中には、「ふれる」の考え方同様に受けいられているという絶対的な要素が含まれているように思える。

恋人も私も手を繋ぐという事で、弱った自分を受けいれてくれている存在を確かめていたのかもしれない。

過去の恋人達も毎晩確認作業をしていたのかもしれない。

 

手を繋ぐということは、安心感や安らぎ、それと同時に不安を拭う行為なのだと思った。

思い出せば、映画やドラマの手を握るシーンでもそう捉えれる要素は沢山ある。

反対にそれだけ人は、年齢や性別関係なく色々な場面で不安を抱え、手を握る、握られる事に救われているのだと思った。

 

ただ、過去の恋人達は何故眠る時に不安を拭おうとしたかは謎である。

思い当たるとしたら私自身が不安を与えていた可能性である。それについてはまた今度書こうと思う。